絶望から立ち上がるために、人が必要なこと【かがみの孤城 感想】
こんにちは、いまちです。
絶望の底って見たことありますか?
わたしの絶望の底は、うつ病にかかっていたときだったと思います。
あの頃、毎日、明日になるのが怖かった。
夜になるとほっとして、夜に守られている気がして、ずっとずっと夜が明けなければいいと思って。
夜、布団の中でしか呼吸ができないような感覚になって。
泣いても泣いてもいくらでも泣けて。涙なんかいくらでも出てきて。
「助けて」って、何度も思った。でも、だれも助けてくれないとも思っていた。
みんな、自分のこと以外は所詮他人事だから。人は自分のためにしか泣けないんだから。
この世界に、自分は一人ぼっちだと思った。
そう思って、もうどうしようもない、こんな世界わたしは生きていけないと思った。
そしてこれが絶望なんだな、と客観的に思いました。
そんな思いの渦の中で、かつてのわたしは自殺を試みました。
あの頃の私にとって、自殺は、手段のひとつでした。
この世界でやっていくための手段。
世の中のルールや水準に則って生きることが求められているこの世界で、わたしという人間はどうやらどうしても逸脱してしまうらしい。
だったら、そこから脱落するのがひとつの手だろう、と。
そのときのわたしは本気でそう考えていました。
自分がついていけないこの世の水準から脱落するために、自殺がひとつの手段であると。
その頃の気持ちを、わたしはある小説を読んでふと思い出しました。
辻村深月『かがみの孤城』
2018年の本屋大賞1位を獲得した話題作、辻村深月さんの『かがみの孤城』。
ずっと気になっていて、ようやく読むことができました。
これから読む人のために、ネタバレになってしまうので細かい話はできませんが、HPに載っているあらすじはこう。
あなたを、助けたい。
学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。
輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた――
なぜこの7人が、なぜこの場所に。
すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。
引用元:https://www.poplar.co.jp/pr/kagami/
すごく引き込まれる作品で、思わず一気読みしてしまったのですが、面白さ以上に何か考えさせられるようなものが多々ありました。
この話には、さまざまな理由で不登校になってしまった少年・少女たちが出てくるのですが、彼らの中の一人がすごく追い込まれてしまうシーンがあります。それこそ、
「生きてなんて、いたくない。生きられない。」
と考えてしまうような、読んでいて本当につらく苦しいシーン。
その場面を読みながら、わたしは冒頭でお話した、絶望の底にいたときの自分のことを思いだしたのです。
「あ、なんか自分に重なる。この気持ち、あのときのわたしと同じだ」と。
絶望とは、孤城に閉じ込められるのに似ている
『かがみの孤城』のはじまりには、次のような「孤城」の説明が書かれています。
こじょう【孤城】
①ただ一つだけぽつんと立っている城。
②敵軍に囲まれ、援軍の来るあてもない城。
『大辞林』
この説明が言いたいのは、孤城に集められた主人公・こころたちの心情は、まさにこの孤城の説明そのものなのだ、ということではと思います。
この世界には、自分は一人ぼっち。誰も自分を助けてはくれない。
だから、希望なんてない。目の前の未来は真っ暗。
まさに、絶望です。
絶望はどんなときに現れるのか。
それは、きっとどうしようもなく追い込まれて、自分では何も成す術が思いつかなくて、それなのに誰も助けてくれない。この世に自分を救ってくれる人なんて誰もいないと、痛いくらいに感じる。
そんなときです。
『かがみの孤城』で「生きられない」と言った人物が味わったのも、たぶんそんな状況での絶望。
わたしは強烈にその子の気持ちがわかりました。
そして同時に、そんな絶望の底から立ち上がるために、人には何が必要なのか?ということも考えさせられました。
「死にたい」という言葉の裏の本音
絶望の中で、人は何を望むのでしょう。
人は本当に追い詰められると、「もう生きられない。死んでしまいたい」と思うようになります。
でも、それがその人の本当の願いというわけでは、断じてないと思います。
わたし自身がそうだったのでよくわかりますが、「死にたい」というのは他に自分がラクになる手段が見つからないからそう思うのです。
本当は生きたい、と思っているはずなのです。
でも、自分ではもうどう考えても、死ぬ以外の良策が見つからない、わからないのです。だから、「死にたい」という結論になってしまう。
「死にたい」という人の本当の願いを掘り起こすならば、きっと「助けてほしい。救ってほしい。誰かわたしを苦しみのない場所に導いてほしい」という願いなのでは、と思います。
本当に絶望しているとき、人は一人では生きていられないのではないかな、とわたしは思います。
もし、絶望の底にいた過去の自分に、今声をかけてあげるとしたら、
「あなたは今、自分一人の力ではどうしても未来に希望をもてなくなっている。誰かの助けを必要としているときだ」
と教えてあげたいです。
周りに助けてくれるような人はいない。誰も自分のためになんか動いてはくれない。
あの頃はそう思っていたからこそ、わたしは自殺を図ったのですが、それまでまったくSOSを発さなかったわたしのSOSが、そのことをきっかけで周りに伝わることになりました。
わたしの場合はかなり大胆なSOSになってしまいましたが、違う方法でちゃんとSOSを発することができていれば、自殺しようとしたりはしていなかったかもしれません。
未来に希望を。自分は一人じゃない。
綺麗ごとかもしれません。
あの頃のわたしが聞いたら、「なにそれ!?バカじゃない!?」と怒ったかもしれません。
しかし、今になってあの頃を振り返り、わたしは本当に自分一人ではどうしようもない状況に自分がいたと、SOSを発してよかったと、本気で思います。
それと、もうひとつ大事なこと。
絶望の底から立ち上がるには、未来に希望をもてるようになることが、本当は一番大切なことなのだと思います。
すなわち、生きている中で、「楽しい、嬉しい、生きていてよかった」と思えるような、生きたいと思えるような何かが未来に見いだせるようになること。
『かがみの孤城』を読んでいても、そのことはものすごく強いメッセージとして感じました。
未来に希望を。自分は一人じゃない。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ!」と、こころに言われているような気がします。